【不便益】便利になっている世の中で得ていることと失っていることについて考えた

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年末年始にかけて、2冊の共通したテーマの本を読み、「便利」と「不便」について考えさせられました。

私たちの「ジョブ」を肩代わりしてくれている「家電」

技術の進歩で私たちは手間を省き、楽に生活できるようになった。

手間のかかる仕事は、家電にやってもらえばいいという考えは、既に多くの家庭に浸透している。

私の周囲でも特に現代の三種の神器といわれているのが「全自動洗濯乾燥機」「ルンバ」「食洗機」。これらの保有率がどんどん高まっている。

まるで私たちは、それらの家電を雇い入れているかのように、せっせと働いてくれている。私たちが嫌がる仕事をしてくれる頼もしい存在だ。

人間が手間暇かけてやってきたことを変わりにやってくれる・・・楽をして何が悪いのだろう?大いに家電に働いてもらい、人間の手間を省いてもらうことには大賛成である。不便の何がいいのだ、と、これらの本を読む前は半信半疑だった。

まあ、何かを得れば何かを失うというのは仕方のないこと。

当然、失っているものはあるだろう。でもそれ以上にたくさんのことを得ていることがあるからいいのだ!と反論したくなる。

「便利化」しているのは家電ばかりではない。

紙の辞書から電子辞書、辞書だけでなく書籍も電子化へ様変わりし、MT車からAT車、そして自動運転まで進化・・・いろんなものが便利になっている。

これらによって失っているものとは何か?

「便利」によって失っているもの

  • 主体性を持つこと。
  • 自分だけ、という感覚。
  • 工夫すること。
  • 機械任せの安心感、信頼感。
  • 発見できる過程。
  • 自己の能力の低下。
  • スキルアップすること。
  • 対象系の理解・・・

確かに便利によって失われているものは大きい。

便利な物に囲まれてもなおなくならない飢餓感

買いそろえても「足りている」ということになかなか気付けない。

新3種の神器以前に、冷暖房や冷蔵庫、炊飯器等・・・とっくにさまざまな「便利」を獲得している私たちだけれど、なお不平不満にまみれてはいないだろうか。

元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんは「寂しい生活」の中で電気をやめていく過程をつづっている。

冷蔵庫をやめること、お風呂をやめること、炊飯器をやめること・・・やめるために頭を使い、自分で確かめ、試行錯誤する過程を通じて、いろんなものが見えてくる。

「不便」こそが人間の「生きる本質」なのかもしれない

お風呂をやめ、銭湯がお風呂になる。冷蔵庫をやめ、スーパーや町全体が自分の保管庫だと考える。ふと気付く。家電を捨てていく中で、家が広くなり、どんどんご近所との交遊も増えていく。

高度成長期、自分たちだけの家を所有すること。自分たちだけの家電を買いそろえることが幸せだと思っていた。でもそれはまるで、それぞれが家に大きな武器を持ち込んで家を要塞化しているような生活だったのではないか。

特に冷蔵庫のくだりが凄かった。冷蔵庫が無い、ということは、今必要な分だけを買うということ。冷蔵庫があるということで無駄なものを溜めこんでいたのではないか?

自分の頭で考え、目で見て、自分でやることが不便なら、不便って「生きること」なんじゃないのか。

「不便」によって失われていること・・それは「精いっぱい人間として生きる」ということなのかもしれない。

稲垣さんは「みんなが私の選択をまねることはできないでしょう」と言っているし、もう一つの本の著者・川上浩司さんも「便利」の一切を否定しているわけではない。

この2冊を読む前は、「便利」のどこが悪い?と喧嘩腰だったものの、なんだかちょっと見方が変わった。

とりあえず、今年の年始に思うのは、本当に必要でないものは手放そう、ということだ。

 

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